「バカと天才は紙一重」の意味
何故か公開せずに下書き保存してあったやつ。
バカと天才は紙一重という言葉がありますね。バカと天才の違いはさほどない、みたいな。
この言葉の意味って、バカの考えと天才の発想というのは似ているものみたいな使われ方されることが多いけど、少し違うんじゃないかと思った。
まず、バカと天才の違いは行動するかどうかにあるのかなと。
バカの方が行動できるとは言いますが、バカの自覚がある人というか、自分はバカなんだと言われて育った人は行動しなくなるんじゃないかと思います。そんな人が突拍子もない発想をしたところで、「自分はバカだから」と行動しなければバカのままです。
逆にそこで行動した人が成功し、天才になるのかなと思うんです。
つまり、考えてる段階ではバカも天才も同じだってことです。「発想」で留めているうちは多分ダメで、具現化しないといけないんじゃないかと。「こういうアプリ作ったら売れるだろうな」という発想は、アプリ作らなければ本当に売れるかどうかは分かりませんから。
次に、バカと天才が紙一重なのは、あくまで一般人目線だということ。
大体全体の96%が一般人だそうですが、残りの2%ずつはそれぞれバカと天才なわけです。そしてその違いや差は、一般人には分からないと。
多分こっちの方が近いだろうなと思います。しょーもない秀才を頭が良いと持ち上げる文化がある以上、バカと天才の違いは見分けがつかないものなのでしょう。
少し違った解釈がなされがちな言葉として、似たようなもので、「運も実力のうち」という言葉があります。
これ、私は運という不確定要素も実力のうちだという意味ではなく、運をも凌駕する実力をつけろという意味じゃないかと思うんです。
例えば就活で、運悪く厳しい面接官だった。不合格だった。とします。
ただ、もし実力があるのなら、運なんか関係ないんですよ。厳しい面接官だろうと、実力ありゃ受かるじゃないですか。
恐らくそういう意味だろうなあと思っています。
「自分は絶対にしない」と断言するやつ信用ならない説
自己の連続性についての記事を読んで、こんなことを考えていたことを思い出しました。忘れないうちに書く。
ちょっと前にいた女子高生のYoutuberで、渋谷かどっかでおっぱいを他人に揉ませて、それを動画で公開する人がいたらしい。
まあこれはあまり関係がないんだけど、例えば男の人がいて、揉むかを尋ねたとする。
この時、「俺は絶対にそんなことはしない」って言ってるやつ、私なら信用できないなと思う。
むしろおっぱいを揉むっていう恥になってしまうような行為を、「してしまうかもしれない」と少しの可能性でも考慮に入れて、しかも相手に素直に伝える人の方が信用できる。
素直ってのもそうだけど、この人は未来の自分が何をするか分からないことをちゃんと頭に入れて、しっかりと考えて行動できる人だろうから。
先延ばしする人だって未来の自分がやることを期待してるわけじゃないですか。どうせ先延ばしする瞬間には宣言するんですよ、自分は明日必ずやるって。どうせ1世紀経ってもやらんだろうけど。大体今できないのになんで将来やると期待できるかが分からない。
私はイライラした時は全く制御が効かなくなります。別に人を攻撃するとかはないんですけど、私は怒りをコントロールできないんだと思います。
自分がギフテッドじゃないかと考えてるのは、むしろコントロールできないほどの怒りが込み上がるのか?という風に考え、調べた結果、感情性OEっぽいから、ということでもあります。
本当に、それくらい制御できません。もはやイライラとか怒りを通り越して発狂します。自分でも信じられないくらいに。
例えるなら噴火した富士山とか、満月を見た狼男とかですかね。いやもう、頭では「あーイライラしてんな」というのが分かってても、体が制御できないというか、うん。
で、そんな私は、いつか人を殺してしまうかもしれないとも思ってるんです。当たり前ですよ、制御できないんですから。目の前でバカが「バカって言う方がバカなんだよ」とか言ってたら噛み殺すかもしれません。
もしかしたら普段溺愛している飼い猫すら、蹴っ飛ばすかもしれない。恋人ができたなら、DVするかもしれない。そんな恐怖があるわけです。あ、飼い猫を蹴っ飛ばしたことはないですよ。
それもあって、自分が何をしでかすかなんて分からないのに、「それはない」「それだけはない」みたいなことを簡単に言える人は、あまり信用できないなと常々考えています。
こういうのって研究されてたりしないんでしょうかね。結構不思議だなーと思ってました。
ダニングクルーガー効果で能力ない人は能力を過信すると証明されたなら、能力ない人は自己連続性を信じ込む、みたいなのないのかな。おっぱい効果と名付けたい。絶対揉むよ、そういうやつ。
シンプル
頭の悪い人ってシンプルに考えられない気がします。そこが頭の良い人が頭の悪い人と交流できない原因にもなってると感じる。
頭の悪い人は27/81で考えてる。そして日常の問題に出会った時に、27/81で計算しようとする。だから問題解決も下手くそだし遅いし計算ミスも多い。
対して頭の良い人は1/3で考えてる気がする。だから日常の問題を解決するのが早い。約分されたものを使って計算するからミスも少ないし、早いし、解決が上手。
でも出た答えは違う(約分すれば同じ)から、頭の悪い人は頭の良い人の答えを見てアホだと勘違いする。こんなに単純じゃないと考える。
頭の良い人は頭の悪い人の答えを見ても理解できない。自分の答えと違って無駄が多いから。どういう過程でその答えになったのかっていう意味で、何考えてるかも読み取れないから。
「数学(勉強)って何の役に立つの?」に対するロクな回答がない
よく中学生が言ってる台詞ですよね。
「数学なんて一生使わない」
みたいなやつ。そう思っていた時期が私にもありました。
情報ソースとしてはいかがなものかと思いますが、2chとか、質問投稿サイトとかで似たような質問・スレッドが出てて、それに対する反論がクソすぎるんですよね。
「数学は論理的思考力を養うのに役立っている」
これが恐らく最も多い回答でしょう。
私もこれだと考えていますし、数学力よりもこれがメインでしょうね。
でも、それって間接的な理由じゃないですか。
数学を学ぶ意味を聞いているのに、なんで論理的思考力の話が出てくるのかが分からない。
論理的思考力を鍛えるなら論理学でもやればいいんじゃないの。考えるべき物事があったとして、それに対処する方法を教えてくれる気がするんだけど。そして論理的思考力とやらに繋がると思う。
アクションゲームは脳を刺激し知能を向上する効果があるという研究があるみたい(一応ゲームにも条件がある)ですが、じゃあ頭良くなるためにアクションゲームするって人がいたとして、そいつ確実に頭悪いですよね。
頭良くなりたいなら、自分にとっての「頭の良さ」を定義して、色んな定義とすり合わせて定義に磨きをかけて、その条件を目標として適した行動をとらないといけないんじゃないの。「ゲームができる=頭良い」という定義ならゲームしててもいいだろうけどね。
「なんでゲームをやる必要があるの?」「頭良くなるからだよ」とか言ってたら意味分からないでしょ。
頭が良くなるからとパズルゲームをやってる人がいたらまずアホ。頭を使うことを楽しんでいるというなら素晴らしいし、それこそがゲームの目的でしょうけど、頭良くなりたいならゲームよりやるべきことがあるでしょうね。
次は「知識の使い方が分かる」。
まず言いたいことは分かりますよ。知識を持ってても使い方が分からなければ意味がないわけで、それをどう使うかを学べるというのは素晴らしいことです。
ただやっぱり、別に数学じゃなくていいよねこれ。
あと数学の問題って知識使えば解けるって問題しか出題されないでしょ。逆に悪く言えば知識がないと解けない問題。
あと数学の問題なんだから数学の知識を使うっていう意識があるわけで、めちゃくちゃ取り出しやすい。
知識が必要なくて、考えれば考えるほど答えが見えてくるっていうのが面白いのに、それを知識の使い方が分かるって理由で知識使えば解ける問題出されても困る。
倫理観とか問われる質問とかによくありますけど、色んな考えを基に答えを探っていく方が、明らかに役立つと思うんだけれども。
他にもありますが、話にならないのでまとめて紹介するだけにします。
「役に立たないと思うならやらなきゃいい」
「教育が間違ってると思うなら変えればいい」
「役に立つ職業もあるよ」
「こんなのもできなくて何ができるの?」
「世の中のものは数学でできている。」
面白かったのは、「義務教育が浸透していないような国では識字率が低い。日本は識字率が高いから当たり前のように感じるけど、勉強してなかったら文字も読めなかった可能性もあるんだよ」とか、
「数学を大学受験の科目に選択した人は年収が高いというデータがあるから」とか、
突然大日本帝国の話が始まり、
「仕事につくを"着く"と誤変換しているところを見ると、あなたは日本語の"勉強"が必要みたいですね。」
とかいう訳の分からんことを言っている人もいる。
多分「勉強ってやる必要なくね?」と言っている中学生の方が頭良いと思います。
学生時代は(今も学生ですが)、私も常々感じていましたよ。これ勉強する意味なくね?と。
「素因数分解。面白いね。仕組みも分かったよ。
・・・で?」
ってなるわけですよ。
そこで伝えるべきは「教養になる」とか「こういったスマホも数学や科学の力でできている。日常に数学はある」とかわけのわからんことではなくて、素因数分解の必要性でしょう。
RSA暗号なんかで素因数分解が利用されていたりしますが、「日常に数学は潜んでいて、数学は使われているんだよ」とかいう説明も成り立ちません。
私が疑問に思っていたのは「素因数分解が私の人生にどう役立つのか」でしょう。
「よく使われている」とか言われても。
いやだから私はいつ使うの?ってずっと思ってました。
そういった仕事に就く可能性があると言われたこともありますが、じゃあ別にその時に勉強すりゃいいでしょう。その時は必要だと感じているでしょうし、必要なんですから。
学生の時のことを思い出して感じるのが、彼ら学生にとっての「勉強」というのはあくまで「5科目の勉強」なんですよね。その先には成績が待っている。でも、成績が良いから何なの?という感じです。
未だに思いますよ、義務教育の間くらいは成績オール1でもいいから、自分なりのやり方で5科目に接しておけば良かったと。
学校には行きますけど、ゴミ教師がテストの点数で怒っていても、自分にとって5科目とは何なのか、学ぶことでどういった世界が見えるのかを考えておけば良かった。そうすれば、少なくとも「勉強したら何が見えるのかが知りたくなった」という理由で、私は勉強を始めていたと思います。
実際学校とかいう監獄から抜け出してみると、勉強は役に立つというか、役に立つことは勉強(学習)する必要があるというだけで、勉強が役に立つわけではないんだなと気付かされました。
頭の悪い人の特徴として最近気付いたんですけど、何事にも意味を与えたがりますよね。これは意味がないとやりたくないという意味ではなく、何事にも意味はあると言いたがるってことです。
クラブに行く人がクラブの批判に対して「色んな人に会える」とか「音楽を楽しめる」みたいなことを愚痴ってたりするんですけど、それ別にクラブじゃなくていいから。クラブなんて娯楽の1つなんだから意味なんかない自分が楽しいから行くんだよとむしろ誇ればいいのに。ジョージ・マロリーを見習ってください。
私もゲーム大好きですけど、ゲームに意味がないと言われたら反論できませんよ。楽しいからやってるだけです。山があるから登るんです。
あと、勉強は必要だと言っている人がよく「自分がやりたいことが分からない」とか言ってると説得力ないなと思います。
自分のやりたいことから逆算して、やるべきこと(勉強すべきこと)をやるのが正解でしょう。数IIIの知識とか、数IIIから学べることは、遊んで暮らしたいと考える人には役に立ちません。
遊んで暮らしたいとは具体的にどういうことか。
「遊んで暮らしたい」の「遊ぶ」はどういう意味か。
遊ぶことで暮らしが成り立つ人生にしたいのか、何か別の簡単で手軽(と思えるよう)なものをして暮らしが成り立つ人生にしたいのか。
遊んで暮らすというのはつまりお金が必要になるが、じゃあ稼げる職業の中で自分がやりたいもの・できそうなものはどれか。
その職業に必要となる知識は何か。
これらが決まったら、じゃあ勉強しようとなるんだと思います。
例えば弁護士になりたいならさっさと法律の勉強すりゃいいんですよ。しょうもない日本史の教科書より六法全書買えばいい。
そこで数学の勉強とかさせられるなら悲劇でしかない。
このブログだと前にも似たような話した気がしますが、ゴールからの逆算が必要なわけです。目的もなく勉強してても仕方がありません。
普通に進んだら何十分かかるのか分からないくらい複雑な迷路って見たことある人が多いと思うんですけど、あれゴールからやったら一瞬で解けるんですよね。当たり前ですけど。
逆算しなければ人生は迷ったり行き止まりにぶち当たったりするよってことです。
それを考えずに闇雲に勉強したりさせたりするのはどうかなと。シンプルに言うと馬鹿のやることです。
「勉強する必要ある?」って言ってる子は勉強が理解できない馬鹿だとよく言われがちですが、する必要があるのかと疑問に思えるくらいの知能はあります。必要も目的も分かってないなら頭に入らないのが当たり前な気もします。ドイツ語の勉強をさせられるとして、必要も目的も分からなければ頭にも入らないし意欲もないから余計に頭に入らないでしょう。
そしてそれを尋ねようものなら
「いいからやれ」「そんなことを考えてる暇があるなら勉強しろ」
とか怒られるわけですよね。
つまり教師はヒトラーである。おわり。
余命半年
なんかすごいタイトルですがそんなに大したことではありません。特にガンとかではないですよ。
私の余命は半年です。いや、もう半年切ったと言ってもいいのかな。
このままいけば来年を迎えることはないという意味なので、余命半年です。厳密には約、半年。
ジョブズが毎朝鏡に問いかけたことで有名な死ですが、私も大体似たようなことをしています。
目の前のこと(将来に確実に繋がる、資産になるもの。やる必要があること。)をやるということにしんどい、つらい、めんどいという感情が湧いた時、自分の余命は半年なんだということを思い出すようにしています。
別に病んでいるわけでもありませんが、死ぬというのはマインドセット目的ではなく割とガチで死にます。自殺志願者ですねいわゆる。
人は死について重く捉えていると感じています。
私は、動物が疲れたら寝るように、風邪を引いたら布団やベッドで横になるように、立ちくらみがしたらその場に座り込むように、病気になったら病院に行くように、生きたくないと思ったら死ぬのです。
別に病んでないですよ、何度でも言いますが。
というのも、私には今年中に成し遂げないといけないことがあります。21歳の私には到底不可能だと言われそうな、大きな夢・野望です。
ただこの20年間、ろくなことしてませんから。
悪いことなど何もしていませんが、良いこともしていない人生でした。
幼少期から環境がゴミだったんだなあと日々気付かされる毎日を送っています。
本当にゴミだった人から見たら恵まれた環境ではありました。ただ、自分のやりたかったこととか、全てにおいて否定されるような環境ではありましたし、今もそうです。
じゃあ私の潜在能力とやらを試してみようかという気になったんですよね。
環境がゴミじゃなかったらもっと良い大学に行ってたかもしれないのにとか、もっと自分の才能は開花してたのにだなんて、バカみたいなこと考えててもしょうがないですから。
余命というより期限が半年ですかね。タイムアウトになったら死にます。
一応今のところ、1/10ほどは既に達成済み…な気がします。多分明日、明後日には1/5から最大で1/3が完了します。10月までに半分ほど達成できると良いなと思いながら生きてます。半分ほど行けば残り半分は簡単な気もしているので。
目標に関しては誰にも言っていません。
当然っちゃ当然ですよね。こんな馬鹿げた夢、達成できない方が当たり前と自分でも感じてますし、そもそも応援もサポートも期待できない環境ですから。
私の夢の難易度は偏差値で言うと208.6だそうです。
256人の学年でテストをして、私が満点、他は0点だった時の偏差値が209.6らしいので、それくらい難しいことみたいです。
よく分からないですけど。
ただ同時に、これぐらいのことも達成できないなら私はそれまでの人間だと考えているのも事実です。そしてその程度の人間は生きてる価値ないかなと(個人の感想です)。これから先生きていくことも難しいだろうなと。
すごい抽象的な記事になってしまいましたが、バカにバカと言って何が悪いのかと考えるような人間なので、バカにバカと言えるようになるには、自分がそこら辺の人間とは違うと結果で証明しないといけないわけですよ(実はこれを達成したところで大したことない気もします)。
「私はアウトプットが苦手で自分の素晴らしい(笑)考えを上手く伝えられないだけだ」とか考えててもキリがないです。
この半年間、何の才能もないと知ったら死にます。という変な記事でした。
誰にも言うつもりはないけど、こういうブログみたいなものだと気軽に言えていいですよね。宣言すると少しやる気も出るし。
「自分がされて嫌なことはするな」っておかしくない?
「自分がされて嬉しいことを他人にしろ」
「自分がされて嫌なことはするな」
まあ小学校辺りで親に言われますよね。先生でもいいですけど。
でもこれ、なんとなく変ですよね。
自分がされて嬉しいことは相手も嬉しいし、自分がされて嫌なことは相手も嫌だと思ってるような言葉だし。自分の考えはみんなの考え。自分が好きならみんなも大好きイェーーー!みたいな。バカか。
もうレイプ犯じゃんそれ。自分はしてて気持ちいい。じゃあ相手も気持ちいいんだ!!!みたいな。
なんでこんなに訳の分からないことを頭の悪い人はシェアしてたんだろう。
考えるべきはその先にあると思うんだけどな。
自分はされて嬉しい。でもこの人にとっては?
自分はされて苦しい。でもこの人にとっては?
なんでそもそも自分基準なんだ。もっと相手基準で考えないのか。相手の気持ち考えるのに自分基準なのはどう考えてもおかしい。
これを考えるのがコミュニケーションなんじゃないの。なんかもうわかんないや。
被害者が悪いこともあるんじゃないの?という話
まず大前提として、加害者が悪いですよ。それは確実。
公正世界仮説とやらで、善人には悪いことが起こるわけがないだからお前は何か悪いことをしたんだという認識を持った人が、被害者が悪いと言ってしまうらしいですね。
ここから本題。
私は被害者が悪いとは言いませんよ。何事においても加害者が悪いと思います。
でも被害者が悪いこともあるよね?みたいな話。
加害者が100%悪いことはあまりないのかなあと個人的には感じています。性悪説側というのもありますが。
保育士に就職しておいて「給料が低い」と抗議しやがる人たちっているじゃないですか。教師とか特に。保育士や教師の給料が低いことなんて誰でも知ってるし、何ならググれば一瞬で出てくる。あれに似たものを感じるんですよね。多分知ってた上で「まあいけるっしょ」みたいに危機感なく就職して、その後に事の重大さを知ったんでしょうけど。
痴漢もそうですが、そういった性犯罪をする頭おちんちんってこの世に一定数いるわけですよ。そんな世の中に生まれたのは日頃ニュース見てれば分かると思うんですけど、なんで夜1人で歩いたの?と尋ねたくなる。知ってたよね、そんな世の中なのは。
最終的には加害者が悪いよ。襲う方が悪い。でもさ、襲われやすい環境に自ら飛び込むのもどうなのよ。夜歩くのダメとか小学生くらいから言われてたでしょ。夜歩く人にも色んな事情があるんだろうけども。
「元凶は加害者であって、加害者さえいなければ起こらなかった」
これは事実。でもそんな世界ありません。こっちがむしろ公正世界仮説のように感じてしまう。
「女性がどんな格好で、いつ、どこを歩いていても、性的暴行していい理由などない」
これも事実。していい理由にはなりません。
されてしまう原因にはなり得ますけどね。
服装が誘ってるとか言ってる奴は頭腐ってるけど。
基本的に犯罪者予備軍で頭ハッピーバレンタインな人間がいない惑星、国、地域などありません。絶対にどこにでもいます。それを加害者が悪いの一言だけで片付けるのもどうなんだろう。危機感なさすぎじゃない?
男と女が2人で夜に男の家で一緒に飲んで、酔って襲われたとかいうのありますよね。
どんなに信用してても2人で飲むとか頭おかしいのかと思う。居酒屋とかなら別だけどさ、なんで2人で?男の家で?しかも酒を?バカじゃん。
まともな人間なら2人で飲もうとは思わないでしょ。男側も、女側も。
何もしないけどラブホ泊まろうか^_^
みたいなことも信じるんですかね。
あほくさ。
ヤりてえからラブホ行こうぜって素直に言うやついないだろ。バカか。
それを「信じてたのに」とか言って片付けてる奴はピュアすぎる。控えめに言ってアホ。
加害者が100%悪いに決まってるという風潮が強くなってきましたが、それはそれで危機感がなさすぎる。加害してるんだから悪いのは皆分かってるよ。でも本当に嫌なら、危機感あるなら、できることは被害者側にたくさんあるよ。
まず夜歩くな。何があっても歩くな。てかタクシー乗れバカ。んでタクシーないなら歩くな。絶対に。
知り合い呼べバカ。んで知り合いがいないなら夜歩くな。絶対に。
服は好きなの着ればいい。でも嫌なら満員電車を避ける努力はしろ。露出度が高い服なら特に。
人ごみも避けた方がいい。できれば。
できるだけ女1人で行動するな。群れろ。家族でもいい。群れる仲間がいないならできるだけ出歩くな。
男は犯罪者予備軍だと思っておけ。それくらいの危機感を持って、細心の注意を払って行動しろ。
「なんで被害者側がそこまでしないといけないの?」
じゃないんだよ。
嫌なら避けろ。避けようとしろ。それをめんどくさいだの自分は悪くないだの加害者に責任があるだのの一言で片付けてる奴が多すぎる。夜に出歩くとか最悪死ぬぞ。バカが。
普通に加害者が悪いよ。でもそれはボーッと生きてていい理由にはならん。いつまでもいつまでも自分は悪くないと考えて生きていられると思うなよ。
それでも被害にあったら同情するよ。私は。
生死は問わない。